2019年
2019.05.18 第618回見学会
集合:小田急小田原線「愛甲石田駅」改札外 9:40
解散:小田急小田原線「本厚木駅」16:00
天気: (気温25℃/15℃)
参加人数:14名 歩行距離:11.5km
(出発)~ 石田遺跡群 ~ 外堀公園 ~ 石田子安神社 ~ 円光院 ~ 城ノ腰公園 ~ 水神池 ~ 引地西公園 ~ 円光寺 ~ 愛甲石田駅前(昼食)~ 熊野神社 ~ 神明神社 ~ 宝積寺 ~ 『縁切り橋』碑 ~ 小野神社 ~ 小町神社 ~ とうやづか公園 ~ 堰神社 ~ 上長谷(停) ⇒[かなちゅうバス]⇒ 本厚木駅(停) ~(終了)
愛甲石田駅南口ロータリーの近くに石田遺跡群の説明版があります。駅周辺の台地には弥生時代から鎌倉時代にかけての数多くの遺跡が分布します。うち中世の遺跡からは鎌倉時代初期のかわらけや、陶質の瓦・白磁・青磁といった大陸からの輸入陶磁器が大量に出土しており、石田次郎為久の存在を裏付ける資料として注目されています。この日はたまたま愛甲石田駅ロータリーふれあい祭が開催されていて、人で賑わっていました。
この公園の南には、かつて石田郷領主石田次郎為久の居館・石田館の外堀があったと推測されます。付近には「外堀(とぼり)」の屋号を持つ家があり、その裏には土塁や堀跡がわずかに残っているそうです。
祭神は伊弉諾命・伊弉冉命。創建は平安時代末期より前と伝わります。鎌倉時代には石田為久が当社を篤く崇拝していたと言われています。境内中程には結びの木と呼ばれる桜とイチョウの二本の木があります。
石田館跡の南端にあたります。館は南に張り出した舌状台地上に築かれており、三方を低湿地帯に囲まれています。境内裏の高台の墓域には父石田為景と為久の墓と伝わる五輪塔の一部が残っています。
※石田為久:平安時代末期の相模国大住郡糟屋庄石田郷の武将。三浦氏の一族で、三浦義明の従孫、蘆名為清の孫、為景の子(『三浦系図』)。通称は次郎。治承・寿永の乱において鎌倉方として木曾義仲討伐軍に加わる。寿永三年(1184)正月二十一日、義仲が粟津の戦いに敗北し北国へ落ち延びる途中、馬が粟津の松原で深田にはまり込んで動けなくなった所を、為久が矢を放って義仲の兜の内側を射抜いた。義仲が倒れた所を為久の郎党二人が駆けつけ、その首を取った(『平家物語』木曾最期より)。『吾妻鏡』元暦元年正月廿日条にも義仲が相模国住人石田為久により討たれた事が記されている。宝治元年(1247)の宝治合戦で一族の首領・三浦泰村に味方し、敗戦後石田氏は所領を没収された。戦国時代の武将石田三成は、石田為久の後裔を称していたと言われる。有名な三成の旗印「大一大万大吉」の文言は、石田為久の軍旗にも使われていたそうで、三成はご先祖?の武功にあやかるために自分の旗印にも使用するようになったのかもしれない。
石田館の南側はかつて低湿地帯で、元々は「城の越」と呼ばれていました。「越」には「離れる・遠ざかる」という意味があり、「石田館から離れた場所」の意味であろうと思われます。
台地の東側下に水神池があります。かつて石田館の敷地内にあったと推測される湧水池で、水神が祀られています。付近には馬洗場もあったとか。現在は先述の子安神社が管理をしています。
現石田スポーツプラザのゴルフ練習場あたりが石田館跡の中心で、すぐ近くにある当公園もその敷地の一角にあたると推定されます。
かつて愛甲庄領主愛甲三郎季隆の居館・愛甲館の別館があったと伝わります。御本尊は聖観音菩薩像で愛甲三郎の守護仏であったと伝えられています。境内には愛甲三郎季隆の墓と伝わる宝篋印塔があり、塔の碑面には「建久三年(1192)正月廿□日」とあり、愛甲三郎生存中の年号と一致しています。また、徳川幕府二代将軍秀忠の正妻・お江の方に縁のある寺らしく、山門には三つ葉葵紋が掲げられています。また、「霊界と話の出来る人」としてかつてテレビでお馴染みだった織田無道氏が、以前ここの住職を務めていました。氏は厚木市の出身で、いろいろと稼いでいた三十年近く前に無住寺だったここの権利を買取り住職に収まったとか。現在は無道氏の縁者が住職を務めています。
寛元元年(1243)の鎌倉幕府発行の文書に「熊野山領愛甲庄その他を母親鶴熊から藤原清俊に譲り渡すことを認める」とあることから、当時この辺りは紀州熊野権現の寄進地(荘園)であったと考えられます。境内には康暦二年(1380)の刻銘のある石灯籠があり、在銘のものとしては神奈川県で最も古いものとされています。ちなみに、愛甲の地名の由来は、相模川の古名である「鮎川(あいかわ)」から来ていると言われています。
伝愛甲館跡。元々は東名高速沿いにあったものを上愛甲公民館の隣に移転し「愛甲三郎館跡」として碑を建てています。昔は館跡を囲む空堀も残っていたとか。他にも東名高速の側には愛甲御屋敷添遺跡があり、愛甲郡衙跡(律令制下の郡役所)ではないかと指摘されています。
※愛甲季隆:平安時代末に武蔵横山党の一族である山口季兼が長男小太郎義久、三男三郎季隆を愛甲庄に配し、彼らは愛甲氏を名乗った。愛甲三郎季隆は、幼いころから武術に優れ、のち源頼朝直属の武士となる。御家人中、特に弓の名手として有名で、強弓・騎射を得意としていたようだ。治承四年(1180)、鎌倉に頼朝の邸宅が完成し新築を祝う弓はじめの儀式が催された際、愛甲三郎は射手として選ばれ一番弓を引いた。以後『吾妻鏡』には、弓道場新築の弓はじめ、由比ヶ浜で行われた牛追物、稲村ヶ崎での小笠懸、鶴岡八幡宮での流鏑馬、伊豆での鹿狩りなどに、射手として愛甲三郎季隆の名が見られる。建久四年(1193)の富士裾野での巻狩りで勃発した曾我兄弟の敵討ちでは、源頼朝に同行していた御家人で、手傷を負った者の一人として、愛甲三郎の名が記録されている。さらに、元久二年(1205)の畠山重忠の乱では、愛甲三郎季隆の放った矢が敵大将畠山重忠に当たった事が記録され「愛甲の名を知らぬ武士はいない」と言われるほどに武名を上げた。しかしながら、建暦三年(1213)の和田合戦では、和田義盛と姻戚関係にあった横山党は一族を挙げて味方し、愛甲氏も参陣するが敗北、愛甲三郎季隆も兄小太郎義久、長子小三郎季通ら一族と共に討死し、愛甲氏は没落の道をたどった。
神明神社のある台地を下ってすぐのところに宝積寺はあります。宗派は曹洞宗。江戸初期の創建ですが、元は愛甲三郎の菩提寺・香華院と伝えられており、本堂左奥に愛甲三郎の伝承をもつ二基の五輪塔があり、愛甲三郎の墓と伝えられています。
近くを流れる玉川の土手の上を歩き『縁切り橋』碑へと向かいました。
玉川球場すぐ近くの桜の木の根元に『縁切り橋』碑があります。愛甲三郎は、源頼朝に寵愛されていた丹後局を案内して、安産祈願のために日向薬師に参詣に向かいました。頼朝の正室・北条政子は丹後局を亡き者にしようと一千騎を差向け、それにより愛甲館は焼討ちに遭います。この急報をこの橋の辺りで受けた愛甲三郎は北条氏から心が離れてしまい、のちの和田合戦で幕府に敵対する道へと進むきっかけとなります。このことから村人はこの橋を「縁切り橋」と呼ぶようになったそうです。川と橋は昭和30年代末頃まではここにあったとか。
小野氏の後裔とされる愛甲氏により篤く崇拝されていた神社。古い納札には建久五年(1194)に当社を再興した記録があり、その時の願主に「愛甲三郎季隆」の名があります。また鎌倉幕府の政所初代別当(現在の内閣総理大臣にあたる)の「大江膳大夫廣元」の名も残っているそうです。
※ヤマトタケル火難伝承地としては静岡県の焼津市や静岡市清水区(草薙神社周辺)が有名ですが、実はこのあたり(厚木市小野地区)ではという説もあります。典拠は『古事記』の記述「佐泥佐斯佐賀牟能袁怒邇毛由流肥能」⇒「さねさし相武(さがむ)の小野に燃ゆる火の」から。神奈川県には他にも、相模原市相模大野周辺、大和市草柳地区、といった伝承地候補があるそうです。/※「さねさし」は「相武」に掛かる枕詞。大化の改新のあと相模川流域の相武国と酒匂川流域の磯長国(しながのくに)が合併して相模国になったと言われています。
高松山の低い方の山頂にある赤い屋根の小さな社殿が小町神社です。この地には平安時代の歌人小野小町の出生地の伝説が残ります。また、北条政子に命を狙われ、愛甲三郎によりこの地に匿われた丹後局は、その恐怖からか一夜にして白髪になってしまったが、小野小町の霊に祈願したところ元の黒髪を取り戻すことができた。そのことに感謝してここに社を建てたとの伝説が残っています。この事からこの神社には、男女問わず30歳以下の白髪を黒髪に戻してくれる御利益があるとか。付近は高松山ハイキングコースとして整備されており、下りはくだもの園の中を通って下りました。
愛名の台地、現やまゆり園あたりにかつて「遠矢塚」という小字がありました。愛甲館から愛甲三郎が放った矢が2キロも離れたその場所まで届いたとの伝説が残っています(愛甲三郎遠矢塚伝説)。この公園はやまゆり園から直線で250mほど離れており、遠矢塚との直接の関係はありませんが、この地の伝承に因んだ「とうやづか」の名が付けられ、伝説をいまに伝えています。
境内に相模人形芝居を伝える長谷人形座の石碑があります。この長谷の地には江戸時代から相模人形芝居という三人遣いの人形芝居が伝わっており、国の重要無形民俗文化財に指定されています。また、江戸時代の中頃、このあたり(厚木市長谷地区)には田沼意次の知行地があったそうです。(長谷村と東隣の船子村、合わせて430石ほど)