サークル・史の会

第696回学習会

徳川幕府260年の礎を築いた徳川秀忠、

幕府崩壊を防いだ保科正之


日 時:12月17日(日)午後1時30分~4時30分
場 所:亀戸カメリアプラザ6階第3研修室
発 表:吉田 健一


〇徳川秀忠
 徳川家康と三代目家光の華やかさの陰に隠れ印象が薄く、家臣には凡庸な二代目といわれ、大失態(関ケ原の遅参)のエピソードが有名であるが、極めて冷静な判断をした、優れた政治家であったのはあまり知られていません。
 実質的に全国統一を成し遂げ、武家・禁中並びに公家諸法度その他の法制化を行い、年寄(後の老中)による合議制・外国船の入港地の制限等の政策、また家康亡き後、豹変し法度の則り違反したものは容赦なく数多くの大名や旗本を改易した。これらの政策は家光の政策である鎖国令や参勤交代のもととなり、偉大な実父家康から政権を引き継ぎさらに、その政権を発展させ、次代の家光に手渡し、徳川の政権を盤石にした。
〇保科正之
 江戸時代の大名、信濃国高遠藩主、出羽国山形藩主を経て、陸奥国会津藩初代藩主、江戸幕府初代将軍家康の孫、2代将軍秀忠の「ご落胤」3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍・家綱を補佐し、幕閣に重きをなした。
 3代将軍家光が急逝し若年の4代将軍家綱の時代は、将軍の輔弼役・実質的な幕府のリーダーとして、幕政を取り仕切り、庶民と向かい合った政治を行い、慶安事件や明暦の大火の的確な後処理で江戸幕府の崩壊の危機を防いだ。徳川将軍を支え、武断政治から文治政治への転換を成し遂げ幕府の支配体制を秩序化へと導いた。

[ 学習会報告 ]
徳川幕府260年の礎を築いた徳川秀忠、幕府崩壊を防いだ保科正之
徳川秀忠・保科正之両名とも江戸時代の人物としてはあまりよく知られてはいません。
どのような人物で、どのようなことを行ったのか、皆さんが情報を得る手段としてはまず
書物、文書があげられるが、実際には残っている文書や記録が少ないこと、最近ではテレビ等のメディアでは歴史上の著名人や出来事は取り上げられることが多く見受けられるようになったが、テレビ視聴者受けするような内容や人物をメインとした番組が多く、今回テーマとした両名については、自筆による発行文書(主として書簡等)や後日家臣や記録等の発行されたものも少なく、またメディア等で取り上げられた記憶がほとんどないので、世間一般的な知名度は高くはないと思いますが、近年新たに古文書が発見され日本史がみなおされるケースが多く、この両名についても大河ドラマの主人公とはいかなくとも、徳川の幕府を支えた重要な人物として見直されてもよいのではないかと私見ではあるがそう思っています。
今回、歴史好きの皆さんがこの両名について少しでも理解をしていただければと思い取り上げさせていただきました。熱心に聞いていただいた参加者の皆さんに感謝いたします。(参加者 31名)
吉田 健一