サークル・史の会

第700回学習会

「毛利元就の戦いとその後の毛利家」


日 時:4月14日(日)午後1時30分~4時30分
場 所:亀戸カメリアプラザ6階第3研修室
発 表:佐川 圭一


毛利元就は1497年に安芸国吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市吉田町)で生まれました。当時の毛利家は安芸国に30数家あった弱小な国人領主(国衆)の1つでした。1523年に家督を継いだ時点の領地は3千貫(1.5万石程度)、軍事力は500~800兵に過ぎなかったと言われています。当時中国地方は、西の大内氏、東の尼子氏が大きな勢力となり争いを繰り返しており、その境界線にある安芸の国人領主はいずかに組して2大国の戦いに巻き込まれていました。この中で元就は知略・策略で勝ち続け、1557年に大内氏、1566年には尼子氏を滅ぼし、中国地方のほぼ全域(8カ国)を支配する日本屈指の戦国大名にのしあがりました。
 毛利元就は1997年のNHK大河ドラマで放映されました。しかしながら、「三矢の訓」や大内氏の実権を握っていた陶晴賢を破った「厳島の戦い」では有名なものの、それ以外は意外と知られていないのではと思います。今回は、「厳島の戦い」以前の苦難の戦いにもスポットライトを当てるとともに、その領国統治・法制度などについても報告を行いたいと思います。また、元就は「決して天下競望の志を起こしてはならぬ」との遺訓を残したようですが、その死没(1571年)後の毛利氏の動向についても報告を行いたいと思います。


[ 報告]

1523年に家督を継いだ時点で3千貫(1.5万石程度)の領地にすぎなかった毛利元就が、どのようにして中国地方のほぼ全域(8カ国)を支配する日本屈指の戦国大名となったか、また元就の後継者(輝元、元春、隆景)は元就の死後どのように行動したかを中心にお話をしました。
弱小領主であるが故に、特に1555年の厳島の戦いで陶晴賢を破り4カ国を支配するまでは苦難の連続でしたが、元就は知力と策略でこれを克服しました。今回の報告では、それぞれの戦いや支配地域の拡大の過程で元就がどのような知力・策略を用いたかを説明するとともに、領国統治の特徴(領内の国人領主や地方勢力といった地方領主の独立性が高く共同管理的色彩が強かった)についても報告しました。
また元就死後の毛利家の動向については、当初は(1576年までは)織田信長と軍事的な同盟関係にあったこと、1578年頃の領地は元就時代をはるかに上回っていたこと、足利義昭を擁した上洛計画があったことなどを報告しました。これらの点は「元就の中国地方全域支配の次は羽柴秀吉の毛利攻めと本能寺の変」という形で理解していた私にとって新しい発見でもありました。
私が以前山陰山陽地方を旅行した時は、大鳥居の改修工事中で厳島神社に行くことができませんでした。NYタイムズの「行くべき52カ所」に山口市が選ばれたこともあり、毛利元就や大内氏に思いを馳せながら再度山陰山陽旅行に行ってみたいと思っています。当日参加頂きました34名の皆様ありがとうございました。(佐川圭一・記)