2024年
日 時:7月21日(日)午後1時30分~4時30分
場 所:亀戸カメリアプラザ6階第3研修室
発 表:淺野義次
水戸黄門として知られる徳川光圀は水戸藩2代藩主です。白いひげを蓄え頭巾を被った旅姿の水戸黄門が助さん・格さんを従えて全国各地を巡り、「天下の副将軍なるぞ」と悪事をたくらむ藩の重臣や悪徳商人たちを懲らしめ、善良な庶民を救うという水戸黄門の物語は18世紀半ば頃に出た『水戸黄門仁徳録』が起源であり、さらに明治20年代後半になって今日の水戸黄門像の原型が出来上がったとされます。
以後この物語は小説・講談・歌舞伎・映画等で盛んに取り上げられました。特に昭和44年(1969)からはテレビドラマ『水戸黄門』が始まりましたが、その放送は40年以上続く国民的時代劇となり、主人公の水戸黄門は全国的にあまねく知られ、親しまれる存在となりました。
しかしそもそも「副将軍」は実在しない役職であり、また水戸に隠居後光圀が藩外に出たのは、将軍綱吉に命じられて江戸に上った時の1回だけである等、水戸黄門の物語には多くのフィクションがあります。一方で助さん・格さんにはそれぞれモデルがおり、また藩内を盛んに巡り領民と親しく交流したことは事実です。今回の学習会では、虚実が混じる漫遊記の実際やその他多彩な事績を取り上げて、水戸黄門こと徳川光圀の実像を描いていきたいと考えています。
[ 報告 ]
テレビ時代劇で有名な水戸黄門こと徳川光圀について、実際はどのような人物であったかについて話をしました。光圀は何よりも「義」ということを大切にしていました。正義や道義に反することを嫌って、自身の家督を兄の子に継がせました。将軍綱吉の行動についても、嫡男を世子にしたことや生類憐みの令について批判をしています。
また光圀は高い見識を持った文化人でした。『大日本史』をはじめ『礼儀類典』『神道集成』等の編纂のほか、那須国造碑修理、侍塚古墳発掘等多くの文化財保護活動を行っています。さらに光圀は武人としての荒々しい魂を生涯持ち続けていました。不正を働いた上層の家臣に対する厳しい処分や紋太夫事件等はその現れだと思われます。
水戸藩第2代藩主としては、家臣団を増強したほか家臣の統制にもすぐれ、安定した藩運営を行いました。また、数々の仁愛的政策により領民から大きな敬愛を受けていました。さらに、儒教の振興や『大日本史』の編纂等により水戸藩士民の精神的基盤づくりを行い、まさに名君と呼ぶにふさわしい人物だったと思います。猛暑の中、当日ご出席いただいた31名の皆様にお礼申し上げます。
(淺野義次 記)