2024年
日 時:10月20日(日)午後1時30分~4時30分
場 所:亀戸カメリアプラザ6階第3研修室
発 表:塩崎 昇
渡邊崋山は江戸後期、田原藩の江戸上屋敷(現在の最高裁判所近く)で生まれた。
田原藩は、愛知県東部・渥美半島のつけ根にある譜代大名だが、一万石余の小藩、瘦せ地で藩士が多く、藩財政苦しく、さらに崋山の父は病がち、極貧のうちに育った。
3つに分けて話します。
① 11人の大家族、長男として貧しさゆえ収入を得るため、画業に専念、やがて西洋画の骨法も取り入れ、45歳で国宝「鷹見泉石像」(まさに傑作)を描くにいたる道。
② 二つめ、40歳で家老になり、田原藩を豊かにするため、地場の“産業革命“施策や、天保の大飢饉に一人の餓死者・流亡者も出さなかった策を施しに至る道。
③ 最後に海防掛を兼務し、外国事情を研究、モリソン号事件を機に、蛮社の獄に捕らわれ投獄され、救援活動を得ることで田原に蟄居。しかし、藩主に迷惑がかからないよう自刀、49歳の生涯でした。
多難な崋山、その周辺のエピソードも交えて話したいと思っています。2月の学習会発表の際、コロナに感染し半年後になりますが、よろしくお願いします。
[ 活動報告 ]
渡邊崋山は40歳で、江戸後期の田原藩(渥美半島)の家老・海岸掛につきました。
蘭学に目覚め、高野長英などを雇い、蘭書を翻訳させ、アヘン戦争前夜の対外危機を的確に把握して、幕府の鎖国政策を批判、「蛮社の獄」の悲劇を招きました。
その獄は、目付・鳥居耀蔵の策謀によるものでした。未定稿の反故をあら捜しして
罪をつくりあげたのです。鳥居は、その名前をもじり「妖怪」とよばれ、政治疑獄を数多く演出して「天保の弾圧者」と畏れられました。
華山は、蘭学の師、松崎慊堂の決死の嘆願で罪を減じられ、田原で蟄居。生活苦で絵画を売りさばいたことで、藩の反発をかい、49歳で自刃しました。
崋山は五男三女の長男、11人家族の極貧の家に生まれ、やがて絵画を谷文晁らに学び、
国宝「鷹見泉石像」を描きます。田原藩主の継嗣争いで首脳部に反対、その縁で実力をつみ、家老への道が開けました。家老職の功績も紹介しました。
彼を取り巻いた、人びとをできるだけ紹介して、その人柄の一端にふれました。
当日は29人の参加者に聞いていただき望外の喜び、ありがとうございました。
塩崎 昇