サークル・史の会

2017年04月 本芝公園

本芝公園 (2017.04.09訪問)
 江戸時代、芝・高輪あたりの海岸線は東海道(いまの第一京浜)のすぐそばまで迫っており、日本全国の大名の米蔵が並ぶ蔵入地であるとともに、江戸屈指の漁港でもありました。本芝公園がある辺りには雑魚場(ざこば)と呼ばれる魚市場があり、ここでは江戸府内に運んで売っても大した稼ぎにならない魚介類を扱っていました。また、ここは古典落語屈指の人情噺と言われる『芝浜』の舞台でもあります(もちろんフィクションです)。

■『芝浜』あらすじ ■ 芝の浜辺で大金の入った財布を拾った魚屋の勝は、大喜びで飛んで帰り、仕事そっちのけで飲み仲間を集め大酒を飲む。翌朝、女房に叩き起こされた二日酔いの勝は、女房に財布のことを聞くが、金欲しさに夢でも見たんだろう、とつれない返事。焦って家中引っ繰り返して探すが財布はどこにも無く、やがてそうか夢だったかと諦める。つくづく身の上を考え直した勝は、これじゃいけねえと一念発起、断酒して死に物狂いに働きはじめる。その甲斐あってか三年後、いっぱしの店を構えることが叶った。そしてその年の大晦日の晩、女房が三年前の財布の件について真相を話した。
 あの日、勝から拾った大金を見せられた女房は困惑した。十両盗めば首が飛ぶといわれた当時、横領が露見すれば死罪だ。長屋の大家と相談した結果、大家は財布を拾得物として役所に届け、女房は勝の泥酔に乗じて「財布なぞ最初から拾ってない」と言いくるめる事にした。そして時が経っても落とし主が現れなかったため、役所から拾い主の勝に財布の金が下げ渡されたのであった。真実を知った勝はしかし女房を責めることはなく、道を踏み外しそうになった自分を真人間へと立直らせてくれた女房の機転に深く感謝する。女房は懸命に頑張ってきた夫の労をねぎらい、久し振りに酒でも、と勧める。はじめは拒んだ勝だったが、やがておずおずと杯を手にする。「うん、そうだな、じゃあ呑むとするか」と一旦は杯を口元に運ぶが、ふいに杯を置く。「よそう、また夢になるといけねえ」

「高輪鉄道之図」歌川芳年(明治4年)現在の本芝公園。ガード下連絡路が往事を偲ばせる

 明治に入り、新橋―横浜間に鉄道敷設の計画が持ち上がった時、この辺りは陸軍の強硬な反対によりその用地取得に難儀します。困った政府が出した案がなんと 沖合に堤を造成しその上に鉄道を通す というもの。この工事により漁港や雑魚場は鉄道より内陸に位置することになりました。しかしガード下から江戸湾の海に通じていたため、江戸の面影を残す入り江は辛うじて保たれ、船も係留されていたのです。まあ今では考えられないような強引な工事で、東京オリンピック前の首都高建設を彷彿とさせます。案の定、環境変化による漁獲高の減少、また周辺の埋立てにより、次第に漁業は行われなくなり、海水が滞留する澱んだ内海となりました。そして昭和45(1970)年、ついにこの入り江も埋め立てられ、現在の本芝公園となったのです。この辺りにある、芝から芝浦方面に抜けるガード下の連絡路は、往事の風景を今に残しています。ほんの半世紀にも満たない頃までこの辺りは海だったなんて、今の様子からは想像もつかないですね。