2017年
日野宿本陣 (2017.07.09訪問)
東京都内に現存する唯一の宿場町本陣建築(実際は脇本陣)の貴重な史跡ですが、それ以上にここを有名にしているのが、天然理心流の門人にしてパトロンでもあった佐藤彦五郎の邸宅だったということです。
佐藤彦五郎は、この辺りの名主である下佐藤家の当主でした。文政10(1827)年の生まれで、のちに義兄弟の契りを交わすことになる近藤勇の7コ年上になります。弘化2(1845)年に石田村の土方家の娘・のぶと結婚、土方歳三の義兄になりました。暴れん坊で「バラガキ」と呼ばれた歳三ですが、姉・のぶとの仲は良く、しょっちゅうこの邸宅に遊びに来て、表玄関を上がってすぐの板間でよく昼寝をしていたそうです。この表玄関は北向きで、後ろ(南側)の戸を閉めると昼間でも真っ暗になるため、具合が良かったのでしょう。
その後、嘉永3(1850)年に、彦五郎は天然理心流三代目宗家・近藤周助の下に入門し、表門脇の旧甲州街道に面した場所、現在は日野宿本陣の駐車場になっている辺りに、出稽古用の道場を建設します。若き日の近藤勇・沖田総司・井上源三郎・山南敬助・永倉新八といった、後に新選組の中核をなす面々も、この道場で剣術修行に励みました。少し遅れて土方歳三も、安政6(1859)年に天然理心流に正式入門しこのメンバーに加わりますが、おそらくその前からここで彼らとともに稽古で汗を流していたのだろうと思われます。
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日野宿本陣表門。左の駐車場に道場があった | 本陣の母屋内部。画面奥が表玄関 |
その後彼らは京に上り、新選組としてその武名を轟かせます。そして鳥羽・伏見の戦いでの幕府軍敗北ののち、新選組も江戸に帰ってきます。その後、近藤勇が甲陽鎮撫隊隊長に任命され、甲府城への救援に向かう際、この日野宿本陣にも立ち寄りました。この時に幹部連中が今後の方針を相談したと言われる部屋も当時のまま残っています。あの沖田総司も病身をおして同行しましたが、ここ日野においてこれ以上は体力的に無理と判断、同行を断念します。隊の出発の日、表玄関前の広場に集結した隊士二百数十名に向かって、残る沖田が玄関の式台辺りに立ち、激励の言葉を掛けたそうですが、病気でふらつく足を踏ん張るため四股を踏むような素振りをしたら、居並ぶ隊士たちに「沖田さん気合入ってるなー」と良い方に誤解された、というエピソードが残っています。
その後、日野宿で火事があり、日野宿本陣は類焼を免れたのですが、離れの一棟を別の場所に移築・寄贈しました。この離れは現存し、現在これを元あったこの場所に戻そうという運動があるらしいのですが、主に財政的な問題からなかなか難しいそうです。