2017年
青鞜社跡 (2017.10.29訪問)
現地にある説明板には、以下のように記述されています。
■「青鞜社」発祥の地 文京区千駄木5-3-11 青鞜社は、平塚らいてう(雷鳥・1886~1971)の首唱で、木村錠子(ていこ)・物集(もずめ)和子・保持研子(やすもちよしこ)・中野初子ら二十代の女性5人が発起人となり、1911年(明治44)6月1日に結成された。事務所はここ旧駒込林町9番地の物集和子宅におかれ、その裏門に「青鞜社」と墨で書かれた白木の表札が掲げられた。月刊「青鞜」の創刊号は明治44年9月に発刊された。雷鳥の発刊の辞「元始、女性は実に太陽であった」は有名で、女性たちの指針となった。表紙絵は後に高村光太郎と結婚した長沼ちゑの作である。青鞜社は初め詩歌が中心の女流文学集団であったが、後の伊藤野枝が中心になると、婦人解放運動に発展していった。事務所はその後4ヶ所移り、「青鞜」は1916年(大正5)2月号で廃刊となった。(文京区教育委員会) 青鞜の名は”BlueStocking”の和訳で、社の黒幕的存在だった生田長江(ちょうこう)により付けられました。「ブルーストッキング」には、18世紀ロンドンでシルクのフォーマルな黒い靴下ではなく、深い青色の毛糸の長靴下を身に着ける事が、教養が高く知性を尊重する婦人達のグループのシンボルとして採用された、という意味と経緯があります。
![]() | ![]() |
『青鞜』創刊号の表紙 | 「青鞜社」発祥の地(右端のマンション) |
『青鞜』創刊号は、表紙画を長沼智恵子、創刊の辞をらいてう、巻頭を与謝野晶子の詩が飾る、現代の歴史知識からすると大変豪華なラインナップでした。そして翌年の新年号では、帝国劇場における芸術座公演『人形の家』(主演ノラ役:松井須磨子)に関連して、増刊号「附録ノラ」を発刊、社員らの婦人問題に関する評論を特集しました。当時「新しい女」という言葉が流行語となり、社の活動は男女で両極端な反響を巻き起こし、良くも悪くも社会に認知され始めます。 ところが、当時としては奔放過ぎる記事を相次いで掲載したことで、本来「目覚めた女性」を指していた「新しい女」の語が「ふしだらな女性」の意に変わって『青鞜』に向けられるようになります。多くの新聞・雑誌が、からかいを込めた「新しい女」特集を載せ、順調だった『青鞜』の活動に影が差すことになりました。女子英学塾の津田梅子は塾生が青鞜に関わることを禁じ、日本女子大学校の成瀬仁蔵も「新しい女」を批判しました。その後、ごく一部からは評価されるものの大多数からの批判に晒され、度重なる発禁処分や幹部らの退社、らいてうから伊藤野枝への編集長交代、といった変遷を経て、結局4年半ほどでその活動を終えることになりました。
『新潮日本文学辞典』(1988年)では、『青鞜』について「文学史的にはさほどの役割は果たさなかったが、婦人問題を世に印象づけた意義は大きい」と論じられています。