2018年
服部十郎兵衛屋敷跡 (2018.09.29訪問)
二宮金次郎(尊徳)は、故郷の栢山村で没落した自家の再興を成し遂げたのちの文化九年(1812)頃、小田原城下の服部家で中間奉公を始めます(当時26歳/一説では服部家からのスカウトとも)。当主の服部十郎兵衛は藩の家老職を勤めており、金次郎が奉公する以前には、財務方のトップだった重臣でした。知行高は千二百石ですが当時の実収入は四百石余りほどしかなかったそうです。この頃の金次郎の奉公の様子として、服部家の若君が狩野殿小路にある宇野権之進の私塾に通うそのお供をして小峰の道をよく往来してた、塾で若君の授業終わりを待つ間、漏れ聞こえる講義の声で修学を積んだ、などのエピソードがいくつか残っています。
一方で、金次郎は服部家において、奉公人による五常講(金融互助組合の一種)を組織したり、服部家の家政再建案を策定したりするなど、のちの「二宮尊徳」を彷彿とさせる働きも見せています。その後奉公を辞してしばらく栢山村の自宅に戻っていた金次郎ですが、文化十四年(1817)頃、服部家から改めて家政再建を依頼され本格的に着手。やがて服部家仕法は成果をあげ、藩に二宮金次郎の名が知られるようになると、そののちは小田原藩の財政再建(小田原仕法)へと活躍の場をステップアップさせていくことになります。
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競輪場入場口側から撮影(赤枠内側が当時の屋敷敷地) | 小峰隧道の上の側から撮影(赤線は当時の石垣の想像図) |
当時の屋敷の敷地面積は二千坪。現在の競輪場入場口の手前辺りから東海道線の小峰隧道の真上までにかけてがそれに当たると言われています。当時の足柄街道は、屋敷の土台である石垣に突き当り右に折れて、屋敷を迂回して通っていたそうです。現在は石垣は無くなり、小峰から北西方向にまっすぐな道が延びていますが、これは大正時代に造られたもので、おそらく競輪場の場所に戦前まであった陸軍の練兵場のために整備されたのではないかと思われます。
小田原の市街は、古い建物自体は多くは残っていませんが、地形や道路・町割りに注目して歩くと、城下町・宿場町としての特徴が随所に残っています。当時の痕跡を探しながらの街歩きがとても楽しめる地であると感じました。